木喰僧、作仏聖

作仏聖(さぶつひじり)と仏師との違い

手塚治虫の「火の鳥」の鳳凰編というのがあります。
学生時代に読んで私は感動しました。
作仏聖(さぶつひじり)と仏師との違いを知るためには
この「火の鳥」の鳳凰編を読むのがわかりやすいかもしれません。

二人の主人公、我王と茜丸。
この二人がまさに作仏聖と仏師です。

仏師は仏を彫ることを仕事にしています。
作仏聖ももちろん頼まれて仏を彫ります。
でも作仏聖は極論すると祈りのために仏を創るのです。
木喰の行の一環として仏を彫るのです。

木喰の行とは、薄い衣一枚で、
獣や魚、虫など動物を殺して食べることはせず
火も使わず、穀物も食べず、
木の実や草のみを食べ山に籠もる厳しい修行です。

火を使わず温かいものも食べれないし
肉などを食べない精進料理などを
遥かに超えた辛い食生活でしょう。

そんな厳しい修行をした僧たちが
この地に確かに存在しました。

弾誓派という作仏聖の開祖、弾誓上人

弾誓上人は天文二十年(1551)尾張国海部郡に生まれたとされています。
幼名は弥釈丸といい四歳で弥陀三尊の名号を唱え、
十二歳で出家をしたとされています。

しかしながら前半生ははっきりしておらず
謎に包まれた部分が多いようです。

美濃国の観音堂で六年間の念仏修行をはじめる。
三十五歳で諸国行脚へ出て、四十歳で佐渡に渡ります。

佐渡で十四年にもわたりの修行の末、
壇特山の岩窟で悟りを開いたといわれています。

その後本州に戻って、念仏聖として
信州から相模に寺院復興や建立を行い、
また温泉なども発掘し、
慶長十三年に京都の古知谷へゆき、
5年後の慶長十八年に洞窟の中で
念仏を唱えつつ入寂したと云われています。

弾誓上人のあとを継いだ但唱上人

弾誓上人は作物聖の祖とも云われており、
その弟子には但唱上人がいた。
本当は但唱こそ作物聖の祖なのかもしれない
実際弾誓作の名号はあっても木喰仏は確認されていない。

作仏を盛んにし弟子に伝えていったのは
やはり但唱の功績が大きいと云われている。

但唱は1579年摂津国、
いまの兵庫県三田市高次に産まれたと云われている。

佐渡の壇特山に渡り、
山岳修行中の弾誓の弟子になったともいわれている。

しかし弾誓と佐渡でかかわった直接的な記述は無く、
佐渡に但唱の遺物もほぼ無く定かではない。

実際、但唱が修行したのは
越後の国の米山山麓であったらしい。

その後相模で修行中の弾誓を訪ね
「但唱」の名をもらい、
信州の地に弾誓を導いたのも但唱であったようだ。

作仏を実質広め、代々伝えた但唱上人

但唱上人は、積極的に仏を彫り、各地に寺を建立した。

京都蓮華寺、東京大井如来寺などに石仏が現存する。
家康の家臣、大久保長安や天海上人との繋がりも
あったという説もある。

各地に弟子も多くいたようで
長音、閑唱、感悦、林貞、教念、清眼などがいた。

特に長音上人は佐渡と大町に弾誓寺を開いたり師にも増して精力的に活躍した。

3世長音上人とその流れを継ぐ聖達

長音上人は越前金津、今の福井県あわら市に
1602年に産まれたと云われている。

師、但唱と同じく虫倉山で修行
し弾誓寺、松本の念来寺などを開山した。

長音に続いて空誉、明阿、山居、と
弾誓の教えは受け継がれていった。

また清念、説離という空誉の流れとは別の流れの弟子たちが
諏訪の万治の大仏を創ったのではないかと推定されています。
長音上人は秋田の帰命寺で入定したと云われています。

弾誓6世、山居上人

この安曇野の地で特に民衆に親しまれていたのが山居上人である。
山居仏といわれるものが数多く現存する。
素朴なものが多いが、高度な技術の仏も多く残している。
また虫倉山近くの小川村にある高山寺の三重塔を再建した。
そして大町市、若一王子神社の三重塔(上記写真)を寄進の上建立をしている。

70歳のとき、住職を務めた大町弾誓寺の観音堂の下に1724年入定した。
入定は伝承として人々に受け継がれていた。
あくまで伝承であったゆえ本当の話なのかどうかはわからなかった。

2002年日本ミイラ研究グループの
プロジェクトチームにより、確かに入定した痕跡が確認された。
その模様は日テレ系列の番組で紹介された。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする